- ほんとうの幸せを見つめる勇気
- 2009/04/25
環境の時代に入ったといっても、「持続可能な社会」とか「生物多様性」といった言葉から抱くイメージは、まだまだ義務的だったり犠牲的に対応しなければならないような、何かマイナスなこととして、できたら避けて通りたい話題だと受け止めている方が多いだろう。
実はこのようなイメージを持つこと自体が、すでにさまざまな、おそらくはかなり歪んだ常識たちを身にまとっているためにおきていると考えるべきだ。なぜなら、「持続可能な社会」とか「生物多様性」に配慮しないということは、食糧だろうが、工業製品だろうが、アート作品だろうが、人間が何かを作りだすために絶対不可欠な、水、土、空気といった、地球からの無償の恵みを自らが拒絶することにつながるのに、犠牲的な気持ちになるのはとてもおかしなことだからだ。むしろ、生活者にとっても企業にとっても、自分たちの日常の生活や未来のために何よりも優先して取り組む姿勢が自然に現れてしかるべきだろう。ちなみに、バーチャルな資本である情報にしても、元々の自然資本(音、光、匂いなど、またはそれが元になった遺伝情報)がなければ、一切の創造作業をすることができない。
これはとっても単純明快なことであるのだが、なぜかこのように考えることを避けようとする力が強大に働く。「社会」を眺めている場所を少し変えて、いつもとちがう角度から見てみるだけで、持続的に幸せを追求できる社会がはっきり見えるのだが、ほんの少し場所を移動する努力を妨げているのが「歪んだ常識」なのだと考えられる。
この「歪んだ常識」の衣を脱ぎ捨てることこそ、ほんとうの幸せを見つめる勇気となるのだろう。そしてもう一度、現社会や幸せや未来についてとことん考えに考え抜いてみてほしい。



