貧困層がほんとうに困っていること
2009/06/12

 当たり前のこととして、お金より大切なものはたくさんあるが、それでも、自然から遠ざかり、自然の知恵が乏しくなり、生きる力がなくなっていくなかで、お金がなくては生きていけない、という強迫観念にかられる人間が多くなっているように思われる。わずか100円のお菓子欲しさに人を殺すというような事件が起こると、「こんなにも生きる力がなくなっているのか」「人と人のつながりがなくなってしまっているのか」と絶句してしまう。


 後進国における貧困層への支援を見ると、さらに強くそれを感じてしまう場面がある。先進国は、1日1ドル以下の生活を送っている貧困層を救おうと、外貨を獲得できる仕事を後進国内につくる経済支援に力を入れている。しかしそれは、グローバル市場の中で、外貨の獲得と引き換えに国内の無償の生態系サービスが国外に流出してしまうことが多く、実はそれまでお金に依存することなく成り立っていた基本的な生活が脅かされていることにつながっているのだ。


 例えば、自国の食糧として消費していた野菜畑をコーヒー農園に変えて外貨を稼ぎ、稼いだお金で外国から食糧を買うという、豊か(?)な暮らしがはじまる。そのとき、コーヒー農園は市場競争に勝つために高い効率が求められ、大規模な支援(?)を受けて設備投資をすることになる。当然、投資は一度だけでなく、他国など競合するコーヒー農園との競争が進むにつれ、常により高い効率が求められるようになり、何度も設備を投資し、大規模化し、ますます国内の食糧自給率が下っていく。いつの間にか、コーヒー農園は豊かな生活を約束するものではなくなり、過剰な設備投資のために積もった借金を返済するための役目に変わっていくことになる。この泥沼の競争に疲れ、自給自足の生活に戻ろう、と思ったときは時すでに遅し、で、もう引き返せないところに来てしまっている。いつの間にか、自国のために使える生態系サービスはほとんどなくなり、逆にお金がないと生きられなくなってしまっている。生きる力がなくなった状態だ。


 悲惨な状況はこれに留まらない。設備での効率が思うようにいかなくなってくると、労働力が搾取されはじめる。労働者の給料が抑えられていき、一家の大黒柱一人の稼ぎでは暮らしていけなくなり、小さな子どもたちも労働に駆り出されていく。こうした理由で学校に行けなくなった子どもは、いったいだれがつくっているのだろうか。


 短期的に見ればよくみえても、外国に依存しすぎるのはよくないし、先進国の物差しで見ているだけでは問題の本質は解決しない。だから、まちがった援助をしてしまって、援助を続ければ続けるほど、かえって不幸になることもあるのだ。もともと、お金なんて一切使わないで基本的な生活のすべてをやってきた地域では、お金を稼ぐことはほとんどできなくても、地球からの恵み(無償のサービス)に感謝しながら、自然のルールの中で、人と人がつながりながら、せいいっぱいの努力を重ねることが、幸せの基本だと思う。


 そしてこれは、後進国だけの問題ではない。日本も同じだ。加速度的に拡大する耕作放棄地は何を語っているのだろうか。

所長写真275研究所 所長勇気はどこからやってくるのか。よき社会をつくる勇気とは。人の勇気を引きだすネットワークの構造とつなぎ手技術の解明を試みる。

ニュース

アーカイブ